これからの教育トレンドは「大人の性格教育」だと思ってる
僕は本業以外にもいくつかの活動をやっている。そのひとつが、一般社団法人高度人材養成機構というものだ。
で、この組織で先日、こんな提言を発表した。
人生100年時代における人材流動性を高める取り組みについての提言
リンクの先に、さらにpdfのリンクがあって、それは45ページにもなるので、ざっくり結論を言ってしまおう。
大企業をはじめとして、会社に人生を預けた生き方だと、せっかく優秀な能力や経験があるのに、ただ年齢を軸としてビジネス組織から追い出されてしまう。
それはとっても「もったいない」話だ。
だから、その「もったいない」状態から、自分の意志で働くとか休憩するとかを決められる状態を目指そう。そのためには、たとえば大企業のビジネスパーソンから、地方中堅企業の番頭さんとかになるという方向性もあるんじゃないだろうか。
そんなことを、さまざまな前向きな意欲のある有識者の方々と議論して、整理した。
興味のある人はご一読を。
で、そこに書いていないことで僕が気付いたことを少し書いてみる。
それは、なぜ「もったいない」人材がうまれてしまっているのか、ということ。
その理由だ。
たとえば提言の中では、理由の分類として、「キャリア意識が組織優先」で、「組織へのコミットメントが高い」人のうち、出世競争に勝った人が勝ち組になったりする、とした。
そこで、負け組というほどではないけれど、ほどほどの出世コースにいる人たちがうまれてくる。
たとえば課長や次長で会社を定年する人たちだ。
そんな人たちがまさに「もったいない」人材だ、という分析をした。
で、なぜそうなってしまうのか、ということなんだけれど、実はそこであるキーワードが出てくる。
「非認知的能力」というものだ。
これは2015年に出版されベストセラーになったこの本で一般にも広まった。
たとえば自制心がある子どもは、大きくなって成功しやすい、ということが統計的に示されている。
この「自制心」が非認知的能力のひとつだ。
慶応大学准教授である著者の中室牧子さんの分類によると、非認知的能力には以下のようなものがある。
さて、これらの能力は、英語では「Non Cognitive Ability」という。
教育分野では、AbilityとはSkillと区分して使われることが多い。
Abilityとは、もって生まれた資質を指す。
Skillとは、後天的に獲得された技術などを指す。
つまり、非認知的能力もAbilityに区分されているので、それは先天的なものだということになってしまう。
ここで「もったいない」人材に話を戻すと、彼らの特徴は、これらの非認知的能力が低い場合が多いということだ。
たとえばあなたの周りにいる、いまいちぱっとしないオジサンを思い出してみよう。
彼等はこんなタイプじゃないだろうか。
- 自分に対する自信があまりない
- やる気があるない
- 粘り強いすぐにあきらめる
- 自制心があるない
- 自分の状況を理解できる(メタ認知)悪いことは他人のせい
- 社会性がある/他人にうまく話しかけられる気に入った人としか話をしない
- すぐに回復できる(レジリエンス)いつまでも根に持つ
- 工夫ができる(創造性)同じ仕事を繰り返している/自分のやり方にこだわる
こうしてみると確かにそれっぽい。
さて、問題は彼らが新卒のときからそうではなかった、ということだ。
特に有名な大企業に入っている人とかだと、非認知的能力は高い時期が確実にあった。
けれどもそれが、数十年間のビジネス生活の中でなくなっていっている。
実は僕がこれから、一般社団法人高度人材養成機構で今年やろうとしているのは、その理由を解き明かして、なんとか再び「できる」人に戻ってもらうための教育プログラムの策定だ。
それは持って生まれたといわれているAbility(実際にはそういうわけではない)を、後天的に改善し成長できるようにしようとする取り組みだ。
別の言い方をすれば、ビジネス生活の中でしみついた考え方を、以前持っていた状態やそれ以上に良い状態に戻そうとする取り組みだ。
ちょっと意味が違うかもしれないけれど、僕はそれを「大人の性格教育」と言ってもいいんじゃないかと思っている。
自分で自分のことをどう思っているか、という本質的な性格じゃない。
周りから見たとき、どんな人だと思われているか、という意味での性格だ。
本質は変わらないかもしれないけれど、人は、周りの人からの見られ方は必ず変えられるから。
平康慶浩(ひらやすよしひろ)
没頭できることで人生を過ごそう
今回の日経スタイル記事へのアクセスがなかなか好調らしい。
働くこととストレスとの関わりについて論じた内容だ。
で、結論としては、ワークアズライフの礼賛という、まあ私なりのポジショントーク。
私はどうもワークとライフとをバランスさせる、というワークライフバランスという言葉がしっくりきていない。
だって、まるでワークが悪いことみたいだからだ。
そりゃ、食べるために嫌々やっている仕事としてのワークなら、逃げ出したい気持ちもわかる。
けれども、逃げ出した先にあるのは、ライフなんだろうか?
ワークから逃げ出した先にあるものは、やはりワークなんではないだろうか。
そもそも僕は、ライフの中の様々なイベントもワークだと考えている。
単純な話、炊事、洗濯、掃除ってライフだけれどワークでもあるんじゃないだろうか。
そして、炊事がイヤで、洗濯が嫌で、掃除が厭という人だっているだろう。いや、かなりいるだろう。ちなみに僕は炊事も洗濯も嫌いじゃないというレベルで、掃除は嫌いだ。
で、まあもしそれらがライフでなくワークであると定義するなら、炊事も掃除も洗濯もしないのがライフということになる。
この場合のライフとは、「自分がやりたくないこと全てを除外した活動」ということになるだろう。
それはもしかして、快楽だけにすべての時間と気力と体力を使う生活だろうか。楽しそうな気もするけれど、3日で飽きそうだ。いや、一週間はいけるかも?
さて、一方、その「自分がやりたくないこと全てを除外した活動」の中に、いわゆる仕事が含まれている人がいたら、それはどうすればいいんだろう?
たとえば文章を書くのが好きで、その文章が多くの人に受け入れられていて、作家と名乗っている人だっている。彼にとって文章を書くことはワークかもしれないけれど、ライフでもある。
なにが言いたいかというと、要は僕はコンサルティングが趣味なので、それ自体がワークでもありライフでもある。評価基準のサーベイ結果に基づく多変量解析をしていたり、年令や等級別の賃金分析とかしていたりすると、時間がすぎるのを忘れるほど楽しい。スマホゲームなんて目じゃない。
だから僕にワークライフバランスをとりなさい、って言われたら、それはつまり掃除をせずにずっと評価報酬制度を作っている状況、ということだ。そしてそのための方法論を論文で探したり、書店で他の人の考えを調べたり、他社のやり方を学んだりして、気力が尽きたあたりで酒場に繰り出す状況だ。
まあそんな感じが僕にとってのワークライフバランスでワークアズライフなんだろうと思う。
そして、そういう生き方をしている限り、ストレスとは無縁だ。
だからストレスと付き合うのが苦手な人ほど、ワークライフバランスよりもワークアズライフをお勧めしたい。
ただ、多分そのとき、ワークもライフも、使われる意味が違うと思う。
ワークライフバランスは、「仕事」と「私生活」とのバランスをとろうということ。
ワークアズライフは「没頭できること」で「人生」を過ごそうということ。
私生活よりも人生の方がきっと楽しい。
平康慶浩(ひらやすよしひろ)