利息は欲望の価格である
セレクションアンドバリエーションのマネージングディレクター 平康慶浩です。
私は以前、ずっと、利息や利子や金利というものをうまく説明できませんでした。
もちろん一般論としての、将来得るキャッシュの現在価値がベースになることぐらいはわかっていました。
でも、どうしてもしっくりこない。
勉強していない人でもわかるような、しっくりくる言い換えができないものか。
そこで36歳という遅いタイミングではありますが、お金の動きを知ろうと、早稲田大学大学院ファイナンス研究科というところで2年間学んでみました。
そこで教えいただいたことを自分なりに咀嚼した結論が、タイトルのものです。
利息とは欲望の価格
今どうしても欲しいものがある人は、手元に現金がなければ多少高い利息を払ってでもお金を借りようとする。
一方で今欲しいものがないけれどもお金が余っている人は、人にお金を貸す。
借りたい人の欲望の大きさによって生まれる価格が利息である。
わかってみれば単純なこと。
でもこれを言い換えるとどうなるか、ということを考えてみました。
例えば、国債の利率は入札で決定します。
入札するのはたいていが金融機関です。財務省のホームページにも掲載されていますね。
http://www.mof.go.jp/jgbs/topics/bond/bidders/index.htm
国債の利率というものは安全資産の利率として表現されたりします。
国がデフォルトすることは滅多にないので、元本を目減りさせたくない資金を国債で運用したりします。
これが以前なら低くても4%、高いときには9%もあったわけです。
これがどういうことを引き起こすかと言えば、一つには年金資産のリスク運用拡大です。
年金資産の運用利回りは以前は5%以上の高い利率が設定されていました。
現在でも3%前後の運用利回りが一般的です。この運用利回り以上に年金資産を運用することが必要です。
もしそれができなければ、毎年企業はその差額を補てんしなければならないからです。
昔は国債ですらそれ以上の利率を保証してくれました。
さらにプラスの運用益は基金代行分の営業外利益として企業収益を潤してくれたものです。
しかし今はそれが保証されない。
となれば他の運用をするしかない。
最近も大きな事件がありました。
2012年1月に発覚したAIJ投資顧問の資産消失です。
資産消失の背景には、信託銀行側の問題などいろいろありますが、ここではそれには言及しません。
安全資産としての国債利率が下がったので、リスク運用を拡大した結果の事件として捉えてみます。
もし国債利率が十分に高ければ、このような運用は生じなかったのでしょうか。
それはもちろんそうでしょう。
無理にリスクをとる必要なんてありません。
(以前の日本の状況が異常だっただけだという説も強く、資産運用はリスクをとることが当たり前だという意見も強いのですが)
では国債利率はどうやれば再びあがるのか。
日銀によるインフレターゲットなどは国債利率を高めることに意味があるでしょう。
他にもマクロ的な対応は考えられます。
縮小しつつある国内市場を活性化させ、国内経済の実質成長率を高める、といったことなども考えられます。
しかしここでタイトルに戻ってみます。
利息というものが欲望の価格であるとするならば。
今、借金してまで欲しいものがある日本国民は、どれくらいいるでしょう。
無くても良いもののために、お金を借りてでも購入したい、消費したい、と思う人がどれくらい存在するか。
実はそれが根本的な利息の決定要因ではないかと考えます。
生活資金のための借金はそこに含まれません。
経済指標や入札利率はその代替指数でしかない。
すでに60才以上の人口割合は30%を超えています。
これらの方々はそもそも借金が困難です。
だから、借りてまで消費することはほとんどない。
一方で若い勤労世代の年収は激減しています。
1980年代に比べて200万円の年収低下を示唆する統計もあります。
この年収低下は20年近い歳月を経て実現したものなので、若い世代にとってはそれが当たり前になっています。
となれば、わざわざ借金してまで贅沢はしない。
身近な外食産業の単価低下を見てもその傾向は顕著です。
するとどうなるでしょう。
給与は生活資金に使う。
借金はしない。もちろん贅沢は抑える。
購入するのは割安なもの。
エンゲル係数の悪化状況は23.7%にもなっています。(日本経済新聞2012年5月1日朝刊より)
今必要なことは、まず収入水準を引き上げること。
そして、かなり語弊を生む覚悟で言うなら、まっとうな借金がしやすい状況をつくること。
そして、そのお金を使って手に入れたくなる、消費したくなるような商品を提供することではないでしょうか。
20代の頃、私がお手伝いした企業にソニーがあります。
最近でこそ凋落が言われていますが、当時のソニーは出井伸之社長の時代。
SCEには久夛良木健さんがいました。
その時私はソニーの部長の前でついこんなことを言ってしまいました。
「ソニーの商品が明日なくなったとして、どうしても困るというお客さんはいませんよね」
そんな失礼な言葉に部長は笑ってこう答えてくれました。
「だからソニーの商品は高く買ってもらえるのですよ」
ブランドや付加価値というものはそういうところにあるのだなぁ、といたく感動したことを覚えています。
無くても困らないが、あると幸せになる
そんな商品やサービスが増えれば、人の欲求も高まっていくのだと思います。
そして増えた欲求が人を幸せにする循環が生まれるのでしょう。
しかし世の中の流れはその正反対に、家族や友達とつながりあえて、過剰な消費が不要な社会を目指しています。
それはきっと正しい社会です。
そして素晴らしい社会なのでしょう。
ただ、私にはその社会が実現しても、「清貧」としか表現できない世界のように思えるのですが。
私たちは清貧を目指して今を生きるべきなのでしょうか?
それは日本が再びガラパゴスになってしまうことのように思えてなりません。
平康慶浩(ひらやすよしひろ)