あしたの人事の話をしよう

セレクションアンドバリエーション株式会社 代表取締役 兼 グロービス経営大学院HRM担当准教授の平康慶浩(ひらやすよしひろ)のブログです。これからの人事の仕組みについて提言したり、人事の仕組みを作る立場から見た、仕組みの乗りこなし方を書いています。

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「冒険」つながりの昔話(わたくしごとです)

昨日、安藤美冬さんの著書を紹介させていただく文章を書きながら、学生時代の旅行を思い出しました。

今日はその時の思い出を少し書きます。

1990年、大学4年生の夏の終わりに、船で日本を発ちました。
1986年にチェルノブイリ事故があって、1989年にベルリンの壁がなくなりました。
1990年の10月3日に、東西ドイツが統一することが決まっていました。
激動の東欧のその現場に、行ってみたいと思ったのです。
当時、フォトジャーナリストを目指していたということもあります。
(さらに大きな理由として、父が息子をシベリアのツンドラとモンゴルの草原とタクラマカン砂漠に行かせたかった、ということもあります。シベリアのツンドラは私が担当し、タクラマカン砂漠北京大学に留学していた弟が担当しました。モンゴル草原はさすがに父が自分で行ってくれました)

旅費を少しでも削ろうと、往路は船を選びました。
1992年に航路が廃止されましたが、当時は横浜からナホトカまで船が出ていました。
たしかバイカル号だったと思うのですが、ウィキペディアを見るとハバロフスク号とか書かれています。どっちだっけ。まあいいか。とりあえず二泊三日の船旅でした。
そこからヤクーツクに飛んでマンモスの化石を見て、バイカル湖のほとりでサウナに入って、シベリア鉄道で列車の旅に辟易して……いろいろ書くと長くなるので割愛しますが、10月3日までには間があったので、モスクワに着いた後、少し南に飛びました。
今ではウズベキスタンと言う国になっていますが、当時はソ連でした。


ブハラ、サマルカンドタシケントと旅をしたのですが、ブハラで一人の日本人と出会いました。
(当時はびっくりするくらいソ連に日本人がいなかったので、ほぼ一週間ぶりくらいに見る日本人でした)

彼と出会ったシーンは今でも覚えています。

ソ連の国営旅行社であるインツーリストを通じてしかホテルの予約ができない時代、日本からの旅行者が泊まれるホテルはブハラの街に一つだけでした。
チェックインのあと、黄色い街を歩き、スークで瓜を買いました。
(ちなみに当時は普通に闇両替があった時代です)
なにもなかったシベリアを経て、モスクワでファンタを見て感激していた私は、このホテルにバーあるのを見て喜びました。お金は十分ではなかったけれど、ビール一本くらいならいいか、と考えてバーに向かいました。つまみにする瓜と、瓜を切るためのビクトリノックスを持って。

バーはホテルの屋上にありました。
というよりも、屋上がバーになっていたのです。ビアガーデンみたいな感じですね。
たしか、年間降雨日数が10日もない地域です。
さして高くないホテルの屋上から見下ろすブハラの街はまっくらで、ところどころにランプらしき明かりが見えます。
むしろ地平線の方が明るい。ぼんやりとかすみ、なにかを映し出すかのようにゆらめいていました。
ほったて小屋みたいなカウンターでバドワイザーを一本買いました。
そしてビーチサイドに置かれているような、頑丈さだけがとりえの白いテーブルに向かいました。
テーブルはいくつも並び、ぽつりぽつりと人が座っていました。
ふと、アジア人らしき人が、両足をテーブルに投げ出して、瓶ビールをあおっていました。

「日本の方ですか?」

日本語が恋しくて思わず問いかけた私に、その人はギロリとにらんできました。
ありゃ、違ったか。
そう思う間もなく、彼が口を開きました。
「学生さん?」

口ひげを生やした強面が、にやりと笑いました。
それから二日間、タジク語を話すことができる彼と、互いにカメラを持ってブハラの街をあちこち飛び回りました。公開されていないモスクの門番を彼が口説き倒し、中の景色をカメラにおさめました。珍しいアジア人二人組のあとをついてくる子供たちのスナップも撮りました。フランスからの団体旅行客にまぎれて観光バスに乗せてもらい、有名(らしい)史跡をめぐったりもしました。

街を出る日が違ったので彼とはそこで別れたのですが、その1週間ほどあと、キエフのホテルのエレベーターでばったりと再会し、喜びあったことも思い出します。

それらの日々を全部足しても、人生の中のわずか数日のことです。
でも、強く心に残る出会いでした。
見知らぬ人に話しかける。互いに自分をさらけ出し、相手に受け入れてもらう。そして限られた日々を共にする。
そんなことは旅先でしかありえないのかもしれません。でも、今の日常もそんな日々に変えられるのかもしれない、と思ったりもします。

ブハラの街で出会ったそのジャーナリストの方は、佐藤和孝さんと言います。
2003年のイラク戦争を機に数々のメディアに登場されていますが、20年前と変わらないバイタリティに感動します。
http://j-press.co.jp/


 

 

平康慶浩(ひらやすよしひろ)