サラリーマンを労働者と考えないほうがよくなってきている
あいかわらずいろいろな会社で人事制度をつくっています。
そんな中、サラリーマンという存在が変わってきていることを実感しています。
私は人事コンサルタントとしては、経済学をベースに仕組みを考えるタイプです。
他のタイプとしては、労働法をベースにしていたり、経営学をベースに考える方々などがいらっしゃるわけですが。
人事にかかる経済学の本で有名なものに「人事と組織の経済学」という名著があります。エドワード P.ラジアー先生の著作ですが、ここではサラリーマンというのは労働者として定義されています。
労働者というのは、経営者との雇用契約に基づき働く人のことです。
だから、人事の仕組みでは、労働者との雇用契約をどう結ぶべきか、ということを考えてゆきます。
採用基準とそのプロセス、労働者の生産性見極め、給与の決定方法、解雇の基準などなど。
労働者自身も知らない個人の生産性を見極め、生産性をより高めてもらうためのさまざまな動機づけ(インセンティブ)を用意します。
これらはすべて、労働者という対象についての対応であり、そのための仕組みです。
でも最近、ちょっと変わってきてるな、と感じています。
従来型の考え方だと、労働者はあくまでも経営者との雇用契約で、自分の労働力を提供します。労働力はできるだけ高く売りたいから、最適な雇用契約を結べる経営者を選んで、転職したりもします。
この考え方だと、あくまでも雇用契約が基本です。労働者の価値は所与であり、その所与である価値に対する対価をどのように設定するかが企業側の命題です。
一方で、自然人としての労働者側の視点に立ってみると、今「雇用契約」以外の選択肢が多く出てきています。
例えばフリーランスであれば、委託契約であったり、あるいは派遣契約的なものもあります。場合によってはコミッションの契約などもありえます。
つまり、労働者が提供できる価値は、雇用契約によるものだけではなくなっている。
それは、労働者が提供するものが、労働力だけではなくなってきている、ということではないかと考えたわけです。
そうなると「労働者」という言葉もうまくマッチしない。
つい「自然人」とかの堅苦しい言い方をしたくもなりますが、例えば「ビジネスパーソン」とか言ってもいいかもしれません。
ビジネスパーソンは労働力を提供することができます。
しかし、労働力以外にも提供できるものがある。
それは知見であったり、感情的サポートであったりします。場合によってはブランドも提供できます。
そしてそれらについての対価を得ることができます。
かつて堺屋太一さんが知価社会という定義をつくられました。
その定義では、社会の基本要素が、人工物の価値から知識の価値に移り変わる。
そうなることで、価格理論や競争原理、インセンティブモデルが機能しなくなってゆく、ということを鈴木寛さんが記されてもいます。
労働力は消費されるとなくなります。少なくとも、働いた時間そのものは過去に消えてゆきます。
しかし知識は消費されてもなくなりません。
サラリーマンは労働者です。そしてこれからも、労働者である側面はなくならないでしょう。
しかし、労働ではない価値を生み出すことができます。
その価値に焦点を定め、労働でない自分自身の価値を高めてゆくこと。
それが新たなキャリアの創造につながるのではないかと考えます。
人事制度はあくまでも会社の中の仕組みです。だから労働に対する対価をどう設定するか、ということを考えてゆきます。
しかし、経営者と個人との間の関わり方が変わるとすれば、そのための人事の仕組みもやはり大きく変わらざるを得ません。
会社を超えたキャリアを前提として、人事制度をつくってゆかなければいけない時代ではないでしょうか。
平康慶浩(ひらやすよしひろ)