職場「飲みニケーション」は推奨されるべきか?
2016年11月28日の読売新聞朝刊に、僕のコメントが掲載された(少しだけだけれど)。
インタビューは受けたけれど、記事の趣旨に反するコメントになってしまったので、おそらく載らないだろうなぁ、と思っていた。
けれども、その辺はさすが大手新聞社。
異なる視点も重要なので、是非掲載します、とのことだった。
「職場『飲みニケーション』推奨」
それが記事のタイトルだけれど、僕は推奨しない、というコメントをした。
そのあたりの理由について、備忘的に書いておこうと思う。
僕が、会社がお金を補助したり、場を作ったりする飲みニケーションを推奨「しない」理由は次のようなものだ。
▼現代の企業は、かつての永年勤続する共同体から、プロジェクトチームのような性格へ変化しつつある。そして変化している会社では、上司が部下に号令して行くような飲み会は減っているだろう
▼とはいえ、人が集まる場所ではストレスが発生するもの。その元となるもの(●●さんがむかつく、とか、▲▲部長っていつもなんでああなんだろう、とか)を共通理解する人どうしでの「飲みニケーション」はストレス解消の面では必要だろう
▼これは同僚など上下関係の無い間柄で自発的に行われるべき。会社が企画、補助するものではストレスをためる人が出る危険がある
▼また、補助をしてしまうと、飲めない人や夜の宴席へ出られない人への配慮を考える必要が生じてしまう。そこまで体系的に制度化できるのであればまだ意味があるかもしれない。実際そういう会社はある。
▼本質的には、給与の増額や勤務時間の削減などに加え、従業員同士がコミュニケーションしやすいオープンな職場環境をつくるほうが、小手先の飲みニケーションに頼るよりもよっぽど意味がある。
僕自身はお酒が好きだし、会社に勤めていた時代には、よく飲みに行きもした。
けれどもそれは会社から強制されたものではないし、そうであれば行かなかっただろう。
仕事でたまたま区切りがついて、ふと見れば先輩が何度も横を通る。
目が合ったので声をかける。
「●●さん、今日軽くいきますか?」
「お、そうか。誘われたらしかたないなぁ。じゃあ行くか!」
誘われるのを待っていたかのように笑顔になる先輩。そこで隣の席の同僚が手を上げる。
「あ、僕も連れてってください」
また別の同僚が椅子にもたれかかりながらこっちを見て話す。
「僕は今日はやめときます。嫁さん待ってるんで」
そんな感じで、有志でぞろぞろと飲みに行き、うだうだと話して、議論が盛り上がれば河岸をかえたりもする(僕は二次会という言葉よりもこの言葉の方が好きだ)。
そうしてしばらくして、ああ、この仕事は彼がやりたがっていたから頼もうかなぁ、と考えたり、進めている仕事についても、彼はちょっと気が乗らないみたいだからもう少し積極的に作業進捗を見てみるか、とかの補助的な作用も出てくる。
けれどもそれは、様々なコミュニケーションの結果としてわかるもので、決して飲みニケーションだけでわかるわけではないし、飲みにケーションだけに頼るものでもない。
会社が補助をしてまで従業員同士をコミュニケーションさせようとするのであれば、そもそも、なぜコミュニケーションが滞っているのか、その理由を考えるところからはじめるべきではないだろうか。
他社がやっているから、流行っているからという安易な制度の導入は、自社の状況によってはときに害となることすらあるのだから。
平康慶浩(ひらやすよしひろ)