世界と自分との間にある見えないなにかが知能である
三宅 陽一郎さんの著作を読みました。
2016年に上梓された「人工知能の作り方 ――「おもしろい」ゲームAIはいかにして動くのか」という本です。
私の東京の定宿の一つが秋葉原なんですが、その際に行く書店が有隣堂なんですね。
そこに平積みされていたので、ふと買ってみたくなったのです。
三宅さんはスクウェア・エニックスのAIシステム開発がメインのお仕事なので、ここでいう人工知能とは、要はゲームの敵キャラをどう動かすか、ということです。
強すぎず、弱すぎず、適切な行動を敵キャラにとらせるにはどうすればよいのか。
昔のセガのゲームにゴールデンアックスという横スクロールのものがありましたが、このゲームでは敵をうまく引き寄せると、がけから落とすことができたりします。
それがゲームプレイのテクニックとしても成立してたのですが、逆に言えば当時のプログラムにおける「知能」の限界だったわけです。
移動する先に穴があっても、まっすぐ主人公を目指してしまうという。
では「知能」とは何なのか。
詳細はぜひ読んでいただければと思うのですが、私たち自然人もまた、知能によって世界を把握し、行動する存在だと理解できます。
たとえば「赤信号は止まれ、青信号は進んでも良い」という交通規則を理解することで、自動車や自転車、歩行する人たちが行きかう交差点を移動できるようになります。
けれども、そのことを知らなくても、「周囲の人が歩き始めたら安全」ということを理解していても、それに類する行動をとることはできます。
では次のような場合はどうでしょう。
私は「赤信号は止まれ、青信号は進んでも良い」という交通規制を知っていますし、経験として「周囲の人が歩き始めたら安全」ということも知っています。
今目の前に行きかう車がない道路で赤信号です。
そして私はとても急いでいます。
周りの人は赤信号でもどんどん渡っています。
さて私は青信号になるまで待つべきでしょうか。
この時に必要なものを私は倫理だと考えています。
そして倫理とは正義や道徳などではなく、「他者への影響」だと考えています。
たとえば小さな子どもがいる状況で、赤信号だけれど安全だから渡る、という選択をした際に、子どもたちにそのような経験を与えてしまいます。
他者に対して危険性のある影響を与えてしまうかもしれないとき、そのことに思いをはせること。
それがまさに倫理です。
そして、知能とはこの「倫理」も含めて考えるべき事柄だと思うのです。
繰り返しますが、倫理とは決して正義や道徳ではありません。
その行動により他者に影響を与えることを理解すること、が倫理です。
だからこそ倫理の定義とは、自らが他者にどのような影響を与えたいのか、という行動基準に他ならないわけです。
そう理解することで、倫理が知能の構成要素であり、世界を把握する基準だということがわかります。
より多くの知識を得たり、その中で自分が求める知識を取捨選択したりすること。
楽しい経験やつらい経験をすること。
それらによって私たちは自分にとっての世界の見方を変えてゆきます。
そして、そこに他者がいるということを理解することで、世界の見え方がまた変わってきます。
おりしも企業の持続的成長が強く意識されるようになってきています。
個人としてだけでなく、企業組織として、倫理を含む知能をどう持つべきかが重要視される。そんなタイミングに来ていると強く思います。
平康慶浩(ひらやすよしひろ)
※この記事は2020年1月6日に、セレクションアンドバリエーションのメルマガとして配信したものに一部修正を加えたものです。