日本ではなぜ玉虫色の仕組みが好まれるのか
本業の順調さ&多忙さを理由にして1年以上逃げていた新刊執筆から、とうとう逃げられなくなりました。
日経スタイルの連載記事もたまっていて、それらを加工して本を書くのでもよい、とは言われたのですが芸がない。
で、コロナショックの最中ということもあり、歴史をいろいろと調べています。
というのも、やっぱり私が書くのなら仕組み系の話ということになるので。
改めて調べてわかるのは、歴史の激動期にいろいろなことが変わるという、まああたりまえのこと。もちろん、給与の仕組みも変わります。
一つの例として、日本での大戦前夜を調べながら以下のようなことを考えました。
(このタイトルで本を書くというわけではありません。)
仮題:なぜ日本では玉虫色の仕組みが好まれるのか
(環境変化を踏まえた動き)
昭和の恐慌⇒他国から分捕ろうという戦争の流れ(過去の成功体験)
(国民に求める行動)
統制のもとでいわれた通りに動くこと
ターニングポイント:1931年 満州事変
(給与の仕組み変遷)
1932年 能力ではなく職務一律型給与制度に変更
1939年 職務給を前提として初任給を年令で決めるようになる
1940年 扶養家族手当支給
昇給のルール化(届け出制)
学歴別給与1942年 年1回昇給を制度化
※「日本の賃金制度:過去、現在そして未来」 笹島芳雄 2012年より要約
生活を守るための給与の仕組みを浸透させ、みんな安心して働ける仕組みにした、ととらえられるかもしれませんが、金額ベースでみると違うんですよね。
たとえば長期統計データをもとにすると、1925年から1940年の給与所得者平均年収はぜんぜん増えていないわけです。
明治維新後の日本現代史において、数年にわたって平均給与が増えない時期というのは2度しかありません。
そのような異常事態なわけで、仮にその期間中も生産性が高まっていたとするのなら、その生産性によって生まれた価値は全部戦争に振り分けられていたとも読み取れます。
敗戦後、4年で70倍というインフレの中で新円交換と預金封鎖などを経て、給与は再び増加傾向に進みます。
1960年代には生活給要素をしっかり残しながら、職務給を一部組み入れ、やがて職能給に移行してゆきます。
ただし、完全に職務給とか職能給に移行したのではなく、一部は年齢給、一部は勤続給、一部は職能給、みたいな感じです。
これらを一言でいうなら、ハイブリッド型の給与制度なんですね。
つまり、良いところ取り、というか、玉虫色、というか、それぞれの要素を組み入れているのでそれでみんな納得して下さいね、という給与の仕組みが戦後ずっと続いてきたわけです。
その理由については、歴史的経緯、というか、それぞれの歴史の現場にいた人たちがその思いをそのまま残してしまってきたからだと感じています。
戦前・戦中・戦後という激動期すべてを経験した人が社会の中枢にいる中で作り上げる仕組みはやはり過去を尊重するものになってしまいました。
当時を振り返るさまざまな文献を読んでみても、GHQの要求に対して日本の伝統をどう守ったか、ということが主に書かれています。
そのこと自体は決して悪いとこではないのでしょうが、環境変化にあわせて戦略を策定し、そのための行動変革を求める、という現在主流となる考え方からは遠いように思います。
変わることよりもむしろ変わらないこと、守り続けることに価値を置く。新しいものを取り入れたとしても、過去の一部を一定割合で存続させる。それがこれまでの日本の美徳だったのでしょう。
さて、では今起きている変化の中でも、その美徳を守るべきなのでしょうか。
平康慶浩(ひらやすよしひろ)