35回目の連載を書き終えた
NIKKEI STYLEというサイトで隔週連載をしている。
プロが明かす出世のカラクリ、というコーナーだ。
その35回目の記事を書き終えた。
隔週で35回目というと、要は70週が過ぎたということで、一年を超えて少しというあたり。
その間、迷惑をかけたこともあれば、連休等の理由で隔週ではないサイクルでの執筆を強制されたこともある。
けれども過ぎてしまえばすべては良い経験となって蓄積される。
とはいえ楽だったわけではなく、この本に癒されたというか、逃避していたこともある。
それはともかく、同じテーマで連載していると気付くこともある。
それは世間の変化だ。
僕は当初、出世のカラクリをあらわすために連載を依頼された。
しかしこの1年と少しの間だけでも、出世のカラクリはすこしづつ変化しているきらいがある。
たとえばこの本は、10年前に出ていたら、もしかすると見向きもされなかったかもしれない。けれども今やベストセラーだ。
僕が専門としている人事の世界も、ずいぶんと変わった。
それに対して「本質は変わらない」と達観している人もいれば、積極的に変化を取り入れている人もいる。
人はそれぞれの軸を持っている。
その軸にそって変化を受け入れたり、拒否したりしている。
で、僕の軸はなにか、といえば、それはやはり「変化の肯定」しかないのだろう。
世の中の多くの人が気付かず、人事の世界で生きている一部の人が気付いていることに、「ビジネスパーソンは年を取る」というものがある。
いやいや、そんなことはあたりまえだ、誰でも知っている、と思うかもしれない。
けれども、ビジネスの現場では驚くほどに、年を取るというあたりまえのことに思いをはせない人が多い。
例えば、今年立てた戦略をずっと同じメンバーで進められると思っている役員。
チームとして最高評価を得て打ち上げパーティで盛り上がっている課員たち。
これらはすべて変化を意識していないからこそ酔いしれる状態だ。
とはいえ、まあそれはそれ。雰囲気とか盛り上がりとかあたりまえじゃないかと思うかもしれない。
人事の世界で生きていて、なぜ「ビジネスパーソンが年を取る」ということを意識するかと言えば、言動が全く変わるからだ。
尖った若手が中堅になって保身に走るなんて日常茶飯事だ。
ばりばりとやっていたトップの部長が、役職定年の翌月には皮肉屋の弱いおじさんになることもあたりまえにある。
そして逆もある。
ちゃらちゃらした若手が責任感のあるリーダーになる。
学びながら迷っていた中堅が、責任感をもって断ずる役員候補になる。
そんな変化を、人事コンサルタントとして25年以上にわたってみてきた僕は、変化をあたりまえに受け入れることができる。
逆にいえば、変化するという軸を持っているということは、それは軸が無いように見えるということでもあるのだけれど。
そして、35回続けてきた連載で、最初の方に言っていたことと、最近言うことが違っていたとしても、それは変化として許してほしいということでもあったりするのだ。
さて、今日原稿はあげたけれど、二週間後はまた次の締切が来る。
そのために、また出世の本質を探しに行こう。
平康慶浩(ひらやすよしひろ)
原題は「上司からの評価にどう向き合うか」でした
今回の日経スタイルの連載は、書く側としては少し趣を変えてみた。
読む側はあまり気づかれないかもしれないけれど、人事制度を設計する側としての「あたりまえ」をあらためて解きほぐしてみている。
実際のところ、人事制度を設計する側の「あたりまえ」は世の中のあたりまえではなかったりする。
たとえば「評価って給与額を決めるためだけにするものではない」ということは、人事コンサルタントにとってはあたりまえだ(経験だけでコンサルティングする自称コンサルタントにしてみれば???となるかもしれないけれど)。
けれども実際に評価を受ける側の人たちにとってみれば、自分の給与を決める以外の意味があるなんてなかなか気づけない。そしてそれはやはりあたりまえなのだ。
なぜなら、視点がそもそも違うから。
ピアノコンクールで審査を受ける側の人に対して、このコンクールは将来有望なピアニストを選抜するためのものだから、多少荒削りでも伸び代のある人を評価する基準で開催している、と言ったところで、「そんなことより私が受かるかどうかが大事」としか思えないということだ。
そういう、視点の違いを踏まえた「あたりまえ」ではないことについて、しばらく書いてみようと思う。
それは僕自身にとっての「あたりまえ」感覚を改めるためでもある。
平康慶浩(ひらやすよしひろ)