コミュ力がない優秀な人はコミュニケーションで測れない
この数年、アセスメントを担当することが増えた。
ちなみにアセスメントと言うといろいろな意味があるけれど、人事面で使うときにはたいていが外部の第三者として面接をすることだ。
で、アセスメントをするときに、とても悩むことがある。
それは、コミュニケーション力が無い人の評価だ。
今僕たちが生きている時代においては、コミュニケーション力は必須になっている。
寡黙に背中で語る人があこがれられたのはずいぶんと昔の話。
今は積極的に自分の意見を示し、人と議論し、お互いに高め合える人が良いとされている。リーダーシップ教育でも、無言でいい、なんて教えることはない。
アセスメントの一場面に、面接があるのだけれど、たとえばそこでこんな返事をする人がどう評価されるか考えてみてほしい。
「あなたが今回部長に昇進したとして、どのように活躍されたいですか?」
「あ、いや……あ、あ、あの……」
「落ち着いて話していただいて結構ですよ」
「えーと、えーとえーと……」
こんなとき、面接をしている立場ではこう思う。
(面接されるとわかっているのに何も考えてこなかったのかな)
(ずいぶんとあがり症の様だけれど、こういう人に重要なポジションをまかせられるかな)
うまく自己主張ができなかったり、相手の質問に答えられなかったりする人は、周囲の人から高い評価を得ることは難しい。ビジネスの場では、採用試験からはじまり昇進試験や異動希望を聞くときなど、さまざまな場面で生じる問題だ。
しかし、わりと少なくない場面で、コミュニケーション力がない、優秀な人に出会うことがある。
たとえば上記のような面接の場に、そういう人が出てきた。
何を聞いても口ごもってばかりでまともな会話が成立しない。
そしてその場は部長への昇進判断の場だった。
普通だったら、僕の手許にあるアセスメントシートに不合格の点数を記載して、「はい次の方」となるところだ。
部長に期待するさまざまな行動についての確認ができないのだから仕方がない。どうしても最低点に近くなってしまう。
しかし、どこかがひっかかった。
そもそも、この人はなぜこの場にいるのか?
まったく期待されるところのない人が、選抜されて、決して安くない費用がかかるアセスメント面接を受けることがあるのだろうか?
ふりかえってみれば、アセスメント面接で落ちる人にはいくつかのタイプがある。
典型的なのは、勘違いしている人。次に卑屈な人。どちらも自分が前に出すぎていて、昇進したいという欲求だけが見え隠れする(卑屈な人というのも結局は自分が大好きな人なので、勘違いしている横柄な人と本質的には変わらない)。
しかしこの人はそのどちらでもなさそうだ。
そこで僕は考えを変えてみた。
まず、手許にある職歴や過去の評価データを再度見直してみた。
次に、この人が昇進した際につくであろうポストに期待される行動を見てみた。
そして、ゆっくりと言葉を選びながら、再度質問をしていった。彼が答えやすいように、単語で回答できる質問とか、YES/NOで回答できる質問などを織り交ぜながら。
結論として、この人は昇進した。
アセスメント評価の結果は不合格の点数だった。
しかし僕はコメントにこう書き添えた。
「口頭でのコミュニケーション力に問題があるため、一般的なタイプの部長職に就くことは困難と思われます。しかし、今回彼がつこうとしている〇〇というポストにおいては口頭でのコミュニケーション力は必須ではなく、むしろ彼が蓄積し発揮している専門性をもって判断すべきかと思います。この専門性という点において、外部から改めて人材を採用することが困難です。また現在の彼の専門性レベルが極めて高いことが確認できます。以上の点から、一般的部長としての行動についての合格点には達していませんが、昇進させることをお勧めします。」
さらにその後の検討会でこういう提案をした。
「一律の『部長』という行動軸の設定だけでなく、専門性を確認できるアセスメントも必要です。そのためには、多面評価などの手法も取り入れながら、優秀な人材に漏れが出ないようにすべきではないでしょうか」
世の中には、コミュニケーションを必須としない能力がある。それもたくさん。
そういう能力を、コミュニケーションで測ろうとすること自体が実は無謀なことだ。
たとえば最近だと、ハイレベルな統計解析能力や、プログラミングなどの能力が重要だけれど、これらをコミュニケーションで確認することは不可能だ。
だからこそ、僕たちのような人事の世界の人間は、さまざまな手法を考えて、その人の優秀さを確認しようとする。
たとえば、アンケートなどを用いた多面評価という手法もある。
(ちなみに弊社で実施しているクラウド・アセスメントサービスもあって、こちらもなかなか好評だ。)
人の優秀さは、一つのモノサシで測ることなんてできない。
もしその人の優秀さを理解できないとすれば、それはアセスメントをするこちら側のモノサシが足りていないだけなのかもしれない。
平康慶浩(ひらやすよしひろ)
年収が市場価値で決まり始めると人事評価の意味が減ってゆく
2015年の夏頃から、名だたる欧米の企業で年次業績評価制度を廃止した、という報道がされている。
僕が昔在籍していたアクセンチュアもその中に含まれているので、実際にどんな改革を進めたのかを聞いてみたりもした。
また、他の会社での改革についての調査もしてみた。
結論としては「廃止した」というよりは「改革した」というのが正しい。
そして、改革の方向性は単一ではないようだ。
おそらく守秘義務が含まれる領域もあるので、ここであえて詳細は記さないが、先頭の記事で公開されているIBMの例で言えば、これはそれほど大した話ではない。
要約すれば、これまでは年次目標の達成度で評価していたけれど、これからは以下の5つの評価指標で評価しますよ、ということ。
具体的には以下の5つらしい。
1)ビジネスの成果:これは今までと同様
2)顧客の成功へのインパクト:測定できる顧客満足度指標、といったところか
3)イノベーション:IBMらしいが、どうやって測るのかが興味深い
4)周囲に対する個人的責任:日本企業だったらきっとチームワークとかいうだろう
5)スキル:自律的成長、と言い換えられるかもしれない
この指標が抽出された経緯は、おそらくだけれど、バランスドスコアカードのような、業績指標間の因果関係の分析に基づくだろう。
つまり結果だけを評価するのではなく、その先行指標も評価しましょう、ということ。
そして年次評価ではなく、少なくとも四半期ごとに評価するので、タイムリーさも兼ね備えましょう、ということになる。
ここに示したIBMの改革は、単純な数値評価だけじゃなくて、先行指標についての評価を個人の人事評価にあてはめたというものだ。だから特段珍しいものではない。
より重要なことは、十把一絡げで語られている変革の中に、本質的なものが含まれていることだ。
それはたとえばこういうことだ。
1)その人に支払う年収は、その人を再度市場で手に入れるためにいくら支払わなければいけないかで決める
2)業績評価どころか人事評価をしない。なぜなら、その人が会社にとって必要だから。それはつまり、失敗しても給与を下げないということ。
3)短期の成功じゃなくて中長期の成功に対する支払いをする。それは資本を与えることであり、株式の割り当てなどの形式をとる。
つまり、市場で価値のある人材=それも年収で言えば少なくとも数千万円以上の年収の人たちについては、雇われる人、という扱いではなく、経営層の一人であったり、あるいは経営資源の一部という扱いに変わるということだ。
市場で価値のある人材は、人そのものが重要な資産に変わるということでもある。
重要な資産である人材は、短期のアウトプットで評価されなくなるということだ。
そして人事評価は、短期的に活躍してほしい人たち向けの仕組みに集約されていく。
これまでも人事の世界には「組織として使う人」と「組織に使われる人」、という区分があった。
これに加えてじわじわと、「組織と対等な人」という区分が生まれているように思う。
組織が持っているのと同じような資本を自分の中に蓄積しているタイプの人材だ。
その価値は労働市場で、希少性とニーズによって評価されることになる。
僕たちがこれから目指すのなら、そういう人材になることを目指す方が面白いのではないだろうか。
平康慶浩(ひらやすよしひろ)