あしたの人事の話をしよう

セレクションアンドバリエーション株式会社 代表取締役 兼 グロービス経営大学院HRM担当准教授の平康慶浩(ひらやすよしひろ)のブログです。これからの人事の仕組みについて提言したり、人事の仕組みを作る立場から見た、仕組みの乗りこなし方を書いています。

まじめな話と、雑感(よしなしごと)とがまじっているので、 カテゴリー別に読んでいただいた方が良いかもしれません。 検索エンジンから来られた方で、目当ての記事が見当たらない場合 左下の検索窓をご活用ください。

「決めようとしないのに決まる」経験がリーダーを壊す

組織のリーダーの要件はいろいろと言われているけれど、僕自身は「決めること」だと思っている。

なぜこういうことを言うかと言えば、リーダーの要件は「戦略を立てられること」だという人に出会ったからだ。

たとえば、ソフトバンクによるARM買収は、孫さんが七手先まで読み通せると自称する戦略性によるものだ、ということで、それはまあそれで納得性がある。

けれどももし孫さんが「決めること」ができない人だったら、買収は成立していないだろう。

 

可能性の話として言えば、「戦略を立てられること」は他人に任せられる。社内に優秀なメンバーがいれば、戦略の選択肢は増えるし、その中の優先順位もわかりやすくなるだろう。戦略コンサルタントという職業だってあるのだから、彼らに依頼するという手段もある。

 

けれども「決めること」だけは他人に任せられない。

だからこそ、リーダーは「決めること」ができなければいけない

 

けれども、なぜか多くの会社に「決めること」ができないリーダーがたくさんいる。

なぜだろう?と思っていたのだけれど、最近気づいたことがある。

決めることができないリーダーは、決めなくても決まってきたから、決める経験を積めなかったんだということ

そして、「決めようとしないことの方がものごとが決まる」という経験を積んできているということ。

 

早口言葉みたいで恐縮だけれど、マトリクスで描くとわかりやすいかもしれない。

 

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僕たちが常識的に考えるのは、このマトリクスの中央のところ。

決めようとして、決まる。

決めようとしないから、決まらない。

この二つの結果はいずれもわかりやすい。

このような結果だけだと、人は「決めようとするから決まるし、決めようとしなければ決まらない」というごく当たり前の学習をする。

だからこのタイプの経験を積んだ人は、「決めること」を重視するようになる。

 

しかし、組織の中は論理的に動いているわけではない。

頑張って決めようとしたけれど、それぞれの利害関係を乗り越えられずに決まらないことだってある。図で言うと左のマスだ。

このタイプの経験を繰り返すと、自分の意志だけでは物事が決まらないという学習をする。結果として社内政治を重視して、事前の根回しをしっかりするようになるかもしれない。

とはいえ、それでも決めようとする行動についての前向きさは失われることはない。

 

一番問題なのは、右のマスのような結果が起きることだ。

それも、組織によってはひんぱんに。

 

誰も決めようとしない。

けれども、会議が終わって誰も反対しなかったから、決まった。

 

このタイプの経験を繰り返すと、そもそも「決めること」を意味のないことだと感じるようになる。

決めようとしなくても、決まることは決まる。

そうして、決めることに意義を見出せない人たちを「育てて」しまうことになる。

 

このタイプの人達は、正しい戦略があれば誰も反対しないから自然に決まる、と考えてしまう。

この場合「正しい戦略」というのは、時によって先進的であったり、あるいはリスクテイクするものだったり、保守的だったり、リスク回避的だったりする。けれども、戦略そのものについての議論は深まらず、ただ、積極的な反対者がいないということによって決まる、消極的多数決によるものだ。

そして、消極的多数決で良い結果が生まれたのを僕は見たことがないのだけれど、皆さんはどうだろうか。

 

平康慶浩(ひらやすよしひろ)

 

コミュ力がない優秀な人はコミュニケーションで測れない

この数年、アセスメントを担当することが増えた。

ちなみにアセスメントと言うといろいろな意味があるけれど、人事面で使うときにはたいていが外部の第三者として面接をすることだ。

で、アセスメントをするときに、とても悩むことがある。

それは、コミュニケーション力が無い人の評価だ。

 

今僕たちが生きている時代においては、コミュニケーション力は必須になっている。

寡黙に背中で語る人があこがれられたのはずいぶんと昔の話。

今は積極的に自分の意見を示し、人と議論し、お互いに高め合える人が良いとされている。リーダーシップ教育でも、無言でいい、なんて教えることはない。

 

アセスメントの一場面に、面接があるのだけれど、たとえばそこでこんな返事をする人がどう評価されるか考えてみてほしい。

 

「あなたが今回部長に昇進したとして、どのように活躍されたいですか?」

「あ、いや……あ、あ、あの……」

「落ち着いて話していただいて結構ですよ」

「えーと、えーとえーと……」

 

こんなとき、面接をしている立場ではこう思う。

(面接されるとわかっているのに何も考えてこなかったのかな)

(ずいぶんとあがり症の様だけれど、こういう人に重要なポジションをまかせられるかな)

 

うまく自己主張ができなかったり、相手の質問に答えられなかったりする人は、周囲の人から高い評価を得ることは難しい。ビジネスの場では、採用試験からはじまり昇進試験や異動希望を聞くときなど、さまざまな場面で生じる問題だ。

 

しかし、わりと少なくない場面で、コミュニケーション力がない、優秀な人に出会うことがある。

 

たとえば上記のような面接の場に、そういう人が出てきた。

何を聞いても口ごもってばかりでまともな会話が成立しない。

そしてその場は部長への昇進判断の場だった。

普通だったら、僕の手許にあるアセスメントシートに不合格の点数を記載して、「はい次の方」となるところだ。

部長に期待するさまざまな行動についての確認ができないのだから仕方がない。どうしても最低点に近くなってしまう。

 

しかし、どこかがひっかかった。

そもそも、この人はなぜこの場にいるのか?

まったく期待されるところのない人が、選抜されて、決して安くない費用がかかるアセスメント面接を受けることがあるのだろうか?

 

ふりかえってみれば、アセスメント面接で落ちる人にはいくつかのタイプがある。

典型的なのは、勘違いしている人。次に卑屈な人。どちらも自分が前に出すぎていて、昇進したいという欲求だけが見え隠れする(卑屈な人というのも結局は自分が大好きな人なので、勘違いしている横柄な人と本質的には変わらない)。

しかしこの人はそのどちらでもなさそうだ。

 

そこで僕は考えを変えてみた。

まず、手許にある職歴や過去の評価データを再度見直してみた。

次に、この人が昇進した際につくであろうポストに期待される行動を見てみた。

そして、ゆっくりと言葉を選びながら、再度質問をしていった。彼が答えやすいように、単語で回答できる質問とか、YES/NOで回答できる質問などを織り交ぜながら。

 

結論として、この人は昇進した

アセスメント評価の結果は不合格の点数だった。

しかし僕はコメントにこう書き添えた。

「口頭でのコミュニケーション力に問題があるため、一般的なタイプの部長職に就くことは困難と思われます。しかし、今回彼がつこうとしている〇〇というポストにおいては口頭でのコミュニケーション力は必須ではなく、むしろ彼が蓄積し発揮している専門性をもって判断すべきかと思います。この専門性という点において、外部から改めて人材を採用することが困難です。また現在の彼の専門性レベルが極めて高いことが確認できます。以上の点から、一般的部長としての行動についての合格点には達していませんが、昇進させることをお勧めします。」

さらにその後の検討会でこういう提案をした。

「一律の『部長』という行動軸の設定だけでなく、専門性を確認できるアセスメントも必要です。そのためには、多面評価などの手法も取り入れながら、優秀な人材に漏れが出ないようにすべきではないでしょうか」

 

世の中には、コミュニケーションを必須としない能力がある。それもたくさん。

そういう能力を、コミュニケーションで測ろうとすること自体が実は無謀なことだ。

たとえば最近だと、ハイレベルな統計解析能力や、プログラミングなどの能力が重要だけれど、これらをコミュニケーションで確認することは不可能だ。

だからこそ、僕たちのような人事の世界の人間は、さまざまな手法を考えて、その人の優秀さを確認しようとする。

たとえば、アンケートなどを用いた多面評価という手法もある。

(ちなみに弊社で実施しているクラウドアセスメントサービスもあって、こちらもなかなか好評だ。)


人の優秀さは、一つのモノサシで測ることなんてできない。

もしその人の優秀さを理解できないとすれば、それはアセスメントをするこちら側のモノサシが足りていないだけなのかもしれない。

 

 

平康慶浩(ひらやすよしひろ)