歩合給と残業代についての判例
労政時報6月23日号を今さら読んで、気になった判例の原文を読んでみた。
要は、歩合給から残業についての割増賃金を差し引いて、残業してもしなくても月にもらえる給与額は変わらない、としている制度について「とりあえず無効じゃない。けれども高裁レベルでも少し検討しろ」と最高裁が判断したという話。
2015年から始まって、2017年2月に最高裁判例が出ているので、高裁差し戻し結果が出るのはいつごろになるんだろう?
そういや某銀行系シンクタンクでも、裁量労働が適用されている従業員に支払った深夜とか日曜出勤とかの割増賃金を業績賞与から差し引いていたので、国際自動車だけがやっているという話ではない。
とはいえ「脱法行為だ!」と指摘される弁護士の先生もおられるので、とりあえず東京高裁の結果を待とう。
制度を設計する立場から言えば、最初からルールとしてオープンにしているのであれば、ありだろう、とは思う。ハーバードのケースで有名な、ノードストロームのSPHというインセンティブ決定指標も、まあ根本的には似たような考え方だからだ。
ただし二つの条件が必要だろうとは思う。
第一に、十分な額の歩合を受け取れること。
第二に、働く時間に裁量があること。
そのあたり、国際自動車の現実はどうで、東京高裁ではどのように判断するのだろう。
平康慶浩(ひらやすよしひろ)
善悪の呪縛を乗り越えるには、強くなるしかない
経営者と近い位置で働くと、辛いことも多いけれど、学ぶことも多い。
そんな話を、前回と今回とで、日経スタイルに書いた。
考えてみれば、今48才の僕が学生だった頃は、良い学校を出て、就職活動を頑張って大企業とかの安定した会社に入ろうとすることがあたりまえだった
最初に入った会社で辛いことがあっても、しっかりと頑張れば誰かが見ていてくれる。
人事は天命、という言葉すらあったくらいだ。
それだけ、会社というコミュニティは当然のものだった。
けれども今となっては、それらが幻想だったことがわかる。
会社は従業員を守るため「だけ」の器じゃないし、経営者は従業員のために「だけ」経営をしているわけじゃない。
従業員を弱者とするなら、弱者の立場ではそれらは善悪の悪になるのかもしれない。
けれども、経営とは善悪ではなく、理と情とのはざまにある。
そして、善悪の判断軸を乗り越えて、理と情を学ぶには、経営に携わるしかない。
経営を学ぶには、経営をするしかないのだ。
だとすれば、経営をせずに、経営者に近い位置で活躍できる働き方とは、とても有意義なものではないだろうか。
そしてその働き方を選ぶためには、強くならなくてはいけない。
弱いままでいる限り、善悪でしかものを考えられないからだ。
平康慶浩(ひらやすよしひろ)