タイトルがなんとも
毎度おなじみ日経スタイルの連載。
分業に対する疑問を呈した記事なのだけれど、タイトルが難しかった。
そしてやっぱり変更になってる。
原題は「人生100年時代には、会社が指示する分業を疑う」というもの。
これはこれでイマイチだ。
短い文章で本質をつくのは、なんとも難しい。
ちなみに蛇足として書いておく。
僕の記事は分業を否定している。けれどもそれに対する反論はもちろんあって、得意なことに特化しなければ成長しづらい、というものなどがある。
それらは、行ったり来たりするものだと考えている。
グロービスの講義でも言っているのだけれど、特に社会科学領域では、誰かが示した意見をうのみにしない方がいい。疑問をもって反論し、そして自分のものにした方が良い。
さて、来週は何を書こうか。
平康慶浩(ひらやすよしひろ)
「分業」の仕組みにのっかってる限りプロフェッショナルにはなれない
「分業」の仕組みにのっかってる限りプロフェッショナルにはなれない。
そんな話を、日経スタイルの連載原稿で書いて、さっき送った。
考えてみれば、分業とはフレデリック・テイラーの科学的管理法以来の、経営学の理論だ。
それは、働く個人のキャリアの観点からは、相反する要素を持つ。
つまり、分業に最適化してしまうと、その人はその組織以外で使えない人になってしまう、ということだ。
いままでそれが明らかになってこなかったのは、新卒⇒終身雇用⇒定年退職、という3つのステージでキャリアを積むことがあたりまえだったから。
そして、多くの会社で「分業」されている仕事が似通っていたから。
でも、そのあたりまえが許されるのはごく一部の超大企業に入っている人たちだけ。
いや、そんな人たちでも、人生の途中でよそ見をすることもあるだろうし、寄り道をしたり、立ち止まってみたりする。勉強したり、旅をしたり、冒険をしたり。それがマルチステージの生き方だ。
僕たちは、会社が求める分業の枠からはみでていかなければいけない。
しかし、会社にいる限りは分業で最適化しないといけない。
だとすれば、はみ出るべき領域は、会社に捧げる時間以外の部分で、だ。
それは、生涯を通じてプロフェッショナルになるという道筋だ。
そんな話のとっかかりになりそうなことを、連載に書いた。
掲載されるのは10月10日のはず。
平康慶浩(ひらやすよしひろ)