あしたの人事の話をしよう

セレクションアンドバリエーション株式会社 代表取締役 兼 グロービス経営大学院HRM担当准教授の平康慶浩(ひらやすよしひろ)のブログです。これからの人事の仕組みについて提言したり、人事の仕組みを作る立場から見た、仕組みの乗りこなし方を書いています。

まじめな話と、雑感(よしなしごと)とがまじっているので、 カテゴリー別に読んでいただいた方が良いかもしれません。 検索エンジンから来られた方で、目当ての記事が見当たらない場合 左下の検索窓をご活用ください。

結晶性能力を伸ばそう

年を取ってくると、記憶力は落ちるし、集中力だって長くは続かなくなる。

でも、年を取ると総合的な判断ができるようになるし、応用だってきく。

 

このあたりの実感は、ちゃんと研究がされていて多くの論文がある。

それらをもとに、ビジネスパーソン向けにわかりやすくあらわしたのが以下のグラフだ。

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下記データをもとにセレクションアンドバリエーション作成

 文部科学省(2014)「平成25年度体力・運動能力調査」

 Bennett Eugene Postlethwaite,(2011),Fluid ability, crystallized ability,   and performance across multiple domains: a meta-analysis

 

 

実際のところ人間は動物なので、年を取るとほとんどの能力は低下していく。

最近、フィギュアスケート浅田真央さん(24)が現役復帰を表明したけれど、よく考えてみれば、フィギュアスケートの選手たちは20代で引退することが多い。

 他には、水泳選手の引退年齢も20代が多い。陸上競技も同様だ。

 

文部科学省の調査を前提とすれば、人間の身体能力のピークは実は17才だ。

スポーツは純粋に身体能力だけじゃなくて、経験も必要だ。それでも身体能力が記録要素と直結しやすい個人競技では、ピーク年齢は20代前半となるわけだ。

 

対戦型の競技やチームプレイが必要な協議では、身体能力に加えて、状況判断や経験がさらに重要になる。だから野球とかサッカーではピーク年齢はもう少し後倒しされる。対戦型やチーム型の競技では20代後半から30代前半がピーク年齢となる

 

重要なことは、身体能力が下がっていっても、年齢とともに積みあがるものがある。それが経験であり、学問的には結晶性能力と言われるものだ。

 

 

さて、ビジネスの世界では身体能力はさほど重要じゃない(もちろん、健康であるにこしたことはないが)。

ビジネスで重要なことは、地頭であったり人あたりの良さ、コミュニケーション能力などだ。

実はこの地頭だが、そのピークは20才前後という調査もある。

地頭や身体能力のことを、学問的には流動性能力という。記憶力や集中力、思考力、暗記力などが含まれる。

これらの能力は遺伝的要素も強いのだけれど、20才前後を頂点として、その後はずっと低下しつづける。

その代わりに、人は結晶性能力を獲得していく。

結晶性能力とは経験によって得られる知識や推理力などと定義されている。

 

ビジネスの世界では、知識や経験のない地頭だけで勝負ができる領域は多くはない。

そしてなによりも、一人で完結するビジネスはひとつもない。すべてのビジネスには相手がいる。仲間がいて、サービスの提供先があって、ライバルがいる。

だからビジネスの世界では、流動性能力はスタートラインを前にすることはできるけれど、決定的な要素とはならないのだ。

地頭が良いことは他人よりも「早く」走りだせることを意味するけれど、「速く」走り続けられるということじゃない

 

ビジネス上のキャリアで本当に重要なことは、より多くの結晶性能力を手に入れることだ。そのためにはより良い経験を数多くする必要がある

20代の頃の苦労は買ってでもすべき、というような意見は上記のように分析することができるし、まったくもって正しいわけだ。

 

僕は最近、この結晶性能力をさらに2つに分類できると考えている。

第一は、いわゆる知識や推理力で、それは自分の頭のなかに築いていくものだ。

第一の結晶性能力は一言で言えば「経験」だ。

でも、人は実は自分の体の外側にも築けるものがある。それがつながりであり、たびたび僕が著作で言及している、社会関係資本

第二の結晶性能力とは一言で言えば「縁」だ。

 

この「縁」という単語を英語になおすと興味深い翻訳がされている。

Weblioというサービスで調べてみると次のようになる。

英語になおした「縁」はrelationship(結びつき)だけれど、それは二番目の訳だ。

「縁」の一番目の訳はfate(運命)でありchanse(機会)だ

 

身体能力や地頭などの流動性能力は加齢とともに低下する。

しかし結晶性能力=「経験」と「縁」は年齢とともに増大する。

 

僕たちが成功を手に入れ、幸せに生きるためには、結晶性能力を伸ばさなくてはならない。

そうすればビジネスにおける僕たちのピークはどんどん後倒しできるようになる

死ぬ時が人生のピークになる生き方も、決して夢じゃない。

 

 

平康慶浩(ひらやすよしひろ)

 

 

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大学教授の毎年の論文発表数、公開してもらえませんでしょうか

今日はちょっと毒を吐く。

知人と会食していて、やっぱり日本の経済学とか経営学のジャンルの教授たち、おかしいよね、と思ったからだ。

僕の専門分野は人事マネジメントだけれど、人事は多様なジャンルに影響する。行動心理学、行動経済学は当然だけれど、労働経済学や教育学にも派生する。

で、それらの分野で論文を探す。

(お前が書けよ、というのはまあ置いといて。僕は修士号しか持っていないので、教授にはなれない。そもそも僕の仕事は、学問を実務に落とし込む仕事であり、それがコンサルタントだ)

 

学問とは基本的に、巨人の肩に乗って、巨人の身長を伸ばす作業だ。

だからこそ、どんな些末な論文にも意味はあるし、多少本筋を外れたとしても、「ああ、僕と同じこんな外れ方をした人がいたんだなあ」という確認にもなる。

 

でも、びっくりするぐらい、論文がない。

 

あったとしても、学者が実務者にこんな話を聞きました、というようないわゆる「ケーススタディ」ばかりだ。たまに「なるほど」と思えるものがあるが、それは中央官庁の役人による研究だったりする。

 

学者は何をしているのか。

 

経済学も経営学も、数式によるモデル化か、あるいは統計的な分析に基づく確認出なければ意味がない、ということはあたりまえじゃないだろうか。

いまどき象牙の塔と言う言葉すらばかばかしい。実務と学術の往復をする人も多い。そんな中で、成果としての論文がそれらをふまえた、一般化がされていなければ何の意義があるだろう。

 

多少知己とならせていただいている若手の学者がいる。

欧米の論文などを紹介しながら、これからの学問のあり方を論じている、有望な識者だ。彼のような学者がなぜ日本の大学に生まれてこないのか。

 

大学の人事制度にも多少たずさわった身から言えば、要は論文の量や質が彼らの雇用や給与に関係しないことが一因だとも思う。

論文を書かなくても、書いたとしてもそのレベルが低くても、教授は教授職を失わない。給与も下がらなければ、身分も失わない。

 

安定が研究に必要だということはわかる。

わかるけれど。

お願いだから、研究をしてほしい。

 

限定条件のもとでいいから、このような結論になったと論じてほしい。

このままだと、英文しか役にたたなくなる。英文論文しか参考にできなくなる。

 

L型とかG型とか、大学で学ぶ側の子どもたちをバカにする前に、あなた方が本当に学究者であるのか、自問自答してほしい。

 

 

平康慶浩(ひらやすよしひろ)