あしたの人事の話をしよう

セレクションアンドバリエーション株式会社 代表取締役 兼 グロービス経営大学院HRM担当准教授の平康慶浩(ひらやすよしひろ)のブログです。これからの人事の仕組みについて提言したり、人事の仕組みを作る立場から見た、仕組みの乗りこなし方を書いています。

まじめな話と、雑感(よしなしごと)とがまじっているので、 カテゴリー別に読んでいただいた方が良いかもしれません。 検索エンジンから来られた方で、目当ての記事が見当たらない場合 左下の検索窓をご活用ください。

何度も思い出しなおす、「等価交換」について読んだ文章のこと

どこでどんな媒体で読んだことなのかまったく覚えていないのですが、時折思い起こしてしまう文章があります。
正確なものは忘れているのですが、こんなことが書かれていました。
もしかすると、私が何かを足してしまっているかもしれません。

等価交換というものはありえない、という内容でした。

================(概要)================
貨幣が存在しない時代において、交換とは物々交換であった。
そして物々交換の時代には、等価交換と言うものは存在しえなかった。
それはモノとモノとの価値が同一かどうかを測るモノサシがないからではない
交換そのものが、遭遇する機会を前提とするものだからだ。

今日出会った相手が持つモノが欲しいとき、あなたは何を差し出すだろう。
そのモノだけでなく、そのモノを持つその相手に出会う機会が次いつ訪れるかわからない。
きっとあなたは、自分が欲しいそのモノよりも少し価値が高いと思われるモノ、あるいは相手が欲しいと考えているモノを差し出すだろう。

この場合に等価交換は成立しえない。

また、あなたが持っているモノが不要である場合を考えてみよう。
森の広場にある切株が交換の場であることを想定してみる。
「交換の場」が存在することによって、遭遇する機会を考慮する必要は減少する。
さて、あなたが持っているモノをその交換の場に置いておくとする。
そこに別の誰かがやってきて、交換の場に置かれたモノを手に入れる。
代わりにその誰かは何かを置いていくことになる。
この時、その誰かはどんなものを置いていくだろう。
誰かが交換の場を存続させたいと願うのであれば、そこで自分が手に入れたモノよりも少しだけ価値が高いと思われるものを置いておくことになるだろう。そうすることで、交換の場は存続しやすくなるからだ。

この場合にも等価交換は成立しえない。

今私たちは通貨と言う共通のモノサシを通じて等価交換を体験している。
105円の菓子パンは、105円の通貨と等価に交換される。

しかし果たしてそうだろうか。
例え通貨を媒介させたとしても、等価交換というものは成立しえないのではないだろうか。
同額の通貨同士を交換することには、両替以外に何ら意味はない。
となればそもそも、等価交換と言うものは存在しないということをあたりまえとすべきだ。

====================================

とまあ、おぼろげですが、こんな話でした。
交換と言う概念そのものが、贈与に対する返礼から始まっている、とかそんなことも書かれていたかもしれません。

私はこの話を何度も何度も思い出し、そして、もう一度心にしまい直します。

その理由はまだうまく言葉にできません。
ただ、私がいつも悩んでいる、理想的な労働市場のあり方のヒントがあるような気がしています。


追記:もし原本をご存知の方がいらっしゃったら是非教えてください。森の広場を交換の場とするような形容はたしかにあったと思います。


 

 

平康慶浩(ひらやすよしひろ)