あしたの人事の話をしよう

セレクションアンドバリエーション株式会社 代表取締役 兼 グロービス経営大学院HRM担当准教授の平康慶浩(ひらやすよしひろ)のブログです。これからの人事の仕組みについて提言したり、人事の仕組みを作る立場から見た、仕組みの乗りこなし方を書いています。

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DXやAIやコロナショックは知的クラスターを創成する

コロナショックの折、交わされる議論の量が格段に増えているように思います。

さらに政治家の変動もあり、過去の振り返りも増えていくでしょう。

 

現状、流通する情報の大半は感情論です。

そのため、本当に私たちの生活を変えてしまうものに、私たちはなかなか気づけません。

けれども、トンボの姿に秋を思うように、ふとした拍子に得た気付きを大切にしてゆけば、備えることもまた可能でしょう。

 

最近私が特に学ぼうとしているのは、17世紀から20世紀にかけての資本主義勃興の歴史的推移です。

 

気になっているところだけざくっと整理すると

 

17世紀(1600年代) 国際金融市場の拡大

18世紀(1700年代) 産業革命による工業の機械化と雑消費の拡大

19世紀(1800年代) 資本集約による産業大型化・生産性向上と賃金労働の拡大

20世紀(1900年代) 帝国主義による共有地の飽和と崩壊・国際関係の模索

21世紀(2000年代) 知的資本集約による国家と企業の関係性変化

 

という感じです。

 

人々の生活の糧としてみれば、18世紀頃までは小資本に対する個別リターンによる生活か、あるいは大資本に従属することによる家来的な生活が主だったと思われます。

19世紀頃からは労働時間と賃金の交換により、一定の自立を伴う契約関係による生活が増えてゆきます。

このスタイルは様々な自由度の拡大に伴い現在にまで至るわけですが、これが今後変わるかどうか、というところに興味を持っているのです。

 

特にAI技術の進展を見るにつけ、これは産業革命の折に進んだ金融資本の集約と同様に、知的資本の集約を進めているように思うからです。

AI技術そのものはオープンソース化が進んでおり、極端な話、10代の若者でもネットワーク環境さえあれば習得できるでしょう。

けれどもAI技術を活用するためには、個人のセンスに加えて、膨大な繰り返しや試行錯誤が必要です。そのためには知的資本の集積という意味でのクラスターが求められます。

 

その「知的クラスター」が21世紀の世界の中心になる可能性が高いと思っています。

チームでプログラミングをしているイラスト

 

かつての資本集約化においては、産業と政治が不可分なことが多かったようです。

しかし知的クラスターにおいては産業と政治との関わりは緩やかになりえるでしょう。

それは知的クラスターが特定の国家内だけにとどまるものでないからです。

国家の枠を超えたクラスター形成を得意とするのはまさに企業です。

 

そこで武力を備えた国家と、成長性を備えた企業との間での関係性が変化しますが、これはすでに起きていますね。

 

一方で知的クラスターによる生産性の変化は、向上ではなく、革命のレベルに達するはずです。

結果として大量の労働力移動が発生するわけですが、それは更なる単純労働者を生む一方で、知的小資本家たちを生むと考えています。

そしてこの知的小資本家たちこそが21世紀の主力になるでしょう。

それはAIを使いこなし、多くの消費者たちに価値を提供する、新たな職業であり階層に他ならないと思うのです。

 

では知的小資本家たちは、どのように生活をしていくのか。彼らはどのようにキャリアを積み、どのように知的資本を得て、それをマネタイズしていくのか。

そのあたりをしばらく掘り下げてみたいと思っています。


平康慶浩(ひらやすよしひろ)

 

 

 

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出世の本質は年収を増やすことではなく階級移動

立っている大家族のイラスト「親子三代」

コロナショックや、その前段で進んでいた同一労働同一賃金とか、70歳までの雇用延長の努力義務化とか、そのあたりの状況を踏まえると、階級区分として社会の整理も一つの手段だと感じるようになりました。

 

たとえば貧困の再生産という言葉などもその一端です。

 

なぜ親が貧しいと子供も貧しいのか。

そのことに対して疑問を呈する人がいますが、これは話が逆なんですね。

 

親が貧しければ子供も貧しいのがあたりまえなんです。

親が金持ちなら子供も金持ちなのがあたりまえ。

 

そのあたりまえがある程度崩されていたのが高度成長期の日本です。

 

仮に貧しい家に生まれても、努力すればよい学校に行ける。

良い学校に行けば、よい会社に入れる。

良い会社に入れたら、そこで努力すればほとんどが出世してゆける。

 

そういった幻想が、年功序列とともに広がっていたのが1990年代初頭までの日本です。

 

そして実際にそれはある程度、人口ボーナスの恩恵もあって、実現していたわけです。

だから幻想ではあったけれど、個人の幻想ではなく、社会全体が共有する幻想だった。

 

社会全体が共有する幻想のことを、バブル、といいます。

 

それがはじけて現実を見据えた時、そこには何が残ったか。

 

努力しなくてもいつか自分は幸せになるだろう、と勘違いした人たちの集団です。

 

人が幸せになるためには、努力しなくてはいけません。

置かれた環境を理解し、そこから少しでもよくなろうとする努力が必要です。

そのモチベーション軸は、自分の幸せもよいし、家族の幸せでもよいし、あるいはなんらかの実利や価値観の達成でもよいでしょう。

少なくとも、何かをなすために努力する、というあたりまえのことをしなくてはいけないわけです。

会社というビジネスの仕組みの中では、なすべき何かを考えず、与えられた仕事しかできない人に高い報酬を支払ったり、自由という名の裁量をふるわせることはありません。

何をなすべきかを理解し、そのために行動した人=十分な資質や実績を見せた人に、報酬や裁量権を与えるわけです。

それが出世ですし、それは労働者階級からの脱却です。その先を中産階級といったり、クリエイティブクラスといったりするわけです。

 

今の日本では、下位中産階級であり貧困層ともいえる労働者階級の状態でも、十分に生活ができます。

その結果、階級間移動をしなくても大丈夫、となってしまうと、それは結局その人の子供たちを下位中産階級貧困層のままにおいておくことになります。

 

現代の日本はまた、階級間移動が極めて容易な社会でもあります。

たとえば今いる会社がいまいちだとしても、そこで努力して課長以上に出世するだけで、中産階級の一員になるわけです。そこでさらに研鑽し、実績を積み、より良い会社に転職することができれば、上位中産階級の一員にもなれるわけです。

 

そうすれば、貧困の再生産ではなく、上位中産階級としての再生産が可能になります。

 

今のままで大丈夫だから努力しない、ということは、その再生産を許容することになります。

結婚せず、子孫を残さないのならそれもありかもしれません。

ただ、もし家族をつくるのであれば、自分が選んだ選択が再生産される、ということが世のあたりまえだということを理解しておいた方が良いと思うのです。

 


平康慶浩(ひらやすよしひろ)

 

 

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