出世の本質は年収を増やすことではなく階級移動
コロナショックや、その前段で進んでいた同一労働同一賃金とか、70歳までの雇用延長の努力義務化とか、そのあたりの状況を踏まえると、階級区分として社会の整理も一つの手段だと感じるようになりました。
たとえば貧困の再生産という言葉などもその一端です。
なぜ親が貧しいと子供も貧しいのか。
そのことに対して疑問を呈する人がいますが、これは話が逆なんですね。
親が貧しければ子供も貧しいのがあたりまえなんです。
親が金持ちなら子供も金持ちなのがあたりまえ。
そのあたりまえがある程度崩されていたのが高度成長期の日本です。
仮に貧しい家に生まれても、努力すればよい学校に行ける。
良い学校に行けば、よい会社に入れる。
良い会社に入れたら、そこで努力すればほとんどが出世してゆける。
そういった幻想が、年功序列とともに広がっていたのが1990年代初頭までの日本です。
そして実際にそれはある程度、人口ボーナスの恩恵もあって、実現していたわけです。
だから幻想ではあったけれど、個人の幻想ではなく、社会全体が共有する幻想だった。
社会全体が共有する幻想のことを、バブル、といいます。
それがはじけて現実を見据えた時、そこには何が残ったか。
努力しなくてもいつか自分は幸せになるだろう、と勘違いした人たちの集団です。
人が幸せになるためには、努力しなくてはいけません。
置かれた環境を理解し、そこから少しでもよくなろうとする努力が必要です。
そのモチベーション軸は、自分の幸せもよいし、家族の幸せでもよいし、あるいはなんらかの実利や価値観の達成でもよいでしょう。
少なくとも、何かをなすために努力する、というあたりまえのことをしなくてはいけないわけです。
会社というビジネスの仕組みの中では、なすべき何かを考えず、与えられた仕事しかできない人に高い報酬を支払ったり、自由という名の裁量をふるわせることはありません。
何をなすべきかを理解し、そのために行動した人=十分な資質や実績を見せた人に、報酬や裁量権を与えるわけです。
それが出世ですし、それは労働者階級からの脱却です。その先を中産階級といったり、クリエイティブクラスといったりするわけです。
今の日本では、下位中産階級であり貧困層ともいえる労働者階級の状態でも、十分に生活ができます。
その結果、階級間移動をしなくても大丈夫、となってしまうと、それは結局その人の子供たちを下位中産階級や貧困層のままにおいておくことになります。
現代の日本はまた、階級間移動が極めて容易な社会でもあります。
たとえば今いる会社がいまいちだとしても、そこで努力して課長以上に出世するだけで、中産階級の一員になるわけです。そこでさらに研鑽し、実績を積み、より良い会社に転職することができれば、上位中産階級の一員にもなれるわけです。
そうすれば、貧困の再生産ではなく、上位中産階級としての再生産が可能になります。
今のままで大丈夫だから努力しない、ということは、その再生産を許容することになります。
結婚せず、子孫を残さないのならそれもありかもしれません。
ただ、もし家族をつくるのであれば、自分が選んだ選択が再生産される、ということが世のあたりまえだということを理解しておいた方が良いと思うのです。
平康慶浩(ひらやすよしひろ)
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