群れなくなった私たち
日本は農耕社会を軸にムラ社会として発展したという説があります。
必ずしもそうではない、という意見はあるようですが、高度成長期の企業での働き方にはそういった側面がありました。
それらはマイナスの側面を持つようでいて、強いプラスの面も持っていました。
たとえば暗黙のルールや排他的な風土、というものは一見マイナスのように見えますが、ムラ社会になじんだ人たちからすれば強力な一体感をもたらすものでした。
組織文化についての研究の観点から見ても、ムラ社会の特徴は企業にとって大きなメリットを持ちます。
暗黙のルールは、そのルールを知らない人にとってはマイナスに働きます。
しかしルールを知っている者同士であれば、都度コミュニケーションをとらなくても、こういう時にはこういう行動をとるべき、ということがあらかじめわかったりします。
また、何を優先して行動すべきか、という価値観についてもあらためて確認するまでもなく個別に判断することができます。
排他性も排他される立場からすればとても厳しいものですが、内部の人たちにとっては特別感を醸成し、互いの親和度を高めます。
そうして一体となって成長してきたからこそ、高度成長が実現したのだ、という考え方です。
それは生物学的に言えば、群れの強さ、と言えるのではないでしょうか。
新卒で入った会社で強い一体感を持って働き、生活をしてゆく。
そして定年まで組織の一員として役割を担いながら、やがて後進に道を譲っていく。
群れとしての会社は続き、その一員であった自分にも誇りを持つことができる。
そんな相互にとってメリットのある関係が構築されていたように思います。
しかし私たちは群れなくなりました。
少なくとも「ずっと同じ人たちと群れる」とことが少なくなりました。
でも、群れにメリットがあることは事実です。特に、まだ十分に強くない場合がそうです。
あるいは十分な強さを持っていても、生物的に弱くなってしまう可能性はあるわけです。
そのためにもどこかで群れのメリットを享受できるようになっていないといけません。
だとすると、私たちはどんな群れに属するべきでしょう。
自分の生き方にあった群れ、という選択肢はもちろん大事です。
けれども、最も良い群れ、というのはもしかすると、自分で作り上げたものなのかもしれません。
著名な経済人たちは、よくよく見てみれば、個別に自分を中心とした組織や集団に属していることが多いようです。
つまり自分を中心とした群れをしっかりと形成しているわけです。
群れの形態は、昔なら会社組織が中心だったでしょう。
しかし現在では、Twitterのフォロワーであったり、Facebookのつながりであったり、インフルエンサーによるネットサロンのようなものも増えてきました。
群れる形態が多様になった今は、実は最も安全な生き方を選べる時代なのかもしれません。
あらためて、自分はどんな群れに属しているのかを考えてみてもよいのではないでしょうか。
平康慶浩(ひらやすよしひろ)