大人なのに、公正な評価に不満を言う人たち
人事コンサルタントは「評価が公正じゃない」というクライアントの不満をひんぱんに聞く。
新しい制度をつくる際に、今の制度の問題点として聞く。
ちなみに、公平と公正は違う。公平、と言ってしまうと、みんな同じだけの評価になってしまう。それじゃあ評価にならない。
だから公正な評価を目指していく。
そうして新しい仕組みを作っていくのだけれど、新しく作った仕組みもまた不満を生じさせる場合がある。
公正な評価にしたはずなのに、不満を言う人たちがいる。
99%の人が明らかに公正だ、と断ずる素晴らしい仕組みでも、1%は不満を言う。
いや、正確に言えば、20%くらいの人たちは不満を言う。
だから、完全に公正な仕組みはできないのか、というとそうではない。
人は公正な仕組みにこそ不満を言うのだ。
不公正な仕組みに対してもよりも、もっと強く。
だから覚えておいてほしい。「不満が出る仕組みは不公正だ」というわけではない、と言うことを。
これは「評価」と言う仕組みが常に持ち続ける問題であり、僕の20年以上のコンサルタント経験から言えば、不満を言う人が社内にとどまれないように=リストラをしてあげるほうがいいのだけれど、なぜか多くの会社の人たちは、人を解雇することに躊躇する。
解雇の方がよっぽどましだ、という雇用なんていくらでもある。
ぶっちゃけていえば、なるべく若いうちに解雇された方がいい。
30代のうちは会社が我慢して面倒をみてきたけれど、40才とか50才を過ぎてやっぱり使えない、と思われる方が悲惨だ。
それよりは30才前にさっさと解雇されて、自分に向いている仕事を探した方がいい。
話がそれた。
社会人は公正な評価にこそ不満を言う。
なぜかといえば、公正な評価とは結果に対してするものだからだ。
多くの社会人は、学生時代の公正さを忘れてしまっている。
大学入学試験を思い出してみればいい。
A:地頭が良くて、遊んでいても受かった人
B:すごく頑張って合格圏内にいたのに、風邪で試験を受けられなかった人
君は、A君が合格したのは不公正だと思うだろうか。
B君が不合格だったのは、不公正だと思うだろうか。
そりゃB君についてはかわいそうだとは思う。でもB君の事情を認めてしまったら、風邪をおして試験を受けた他の人を否定することになる。どこまでが許容範囲で、どこからが許容できないか、ということはあいまいではいけない。試験を受けたかどうか、と言うシビアな判断が基準となる。
さて、これを会社に置き換えるとどうだろう。
A:もともとイケメンで元気で好かれる性質。おまけに残業なんてかけらもせず、いつも客と飲み歩いている。なのに(だから?)営業成績を簡単に達成した
B:ものすごく頑張っていて、スキルも地頭レベルも高いのだけれど、たまたま客へのプレゼン日に過労で入院して欠勤。結果として失注。売上も未達成。
君はA君を認めるか。B君を認めるか。
公正とは、A君を認めるということだ。
B君を認めなければいけない理由があるとすれば、それは彼がずっと勤務し続ける正社員だからだ。これはゲーム理論でいう、繰り返しの法則だ。
でもそれは、評価をするその時点において公正なのか?
公正の基準をあいまいにしてしまってはいないか?
公正とは、結果だけで評価をするということだ。
誰しもが=公、納得する=正、ためには、それはデジタルでなくてはいけない。
そして、デジタルなものは結果しかないからだ。
一方で、1990年代から最近に至るまで、「かいた汗を認める仕組み」を評価に組み入れようとする人たちがいた。
僕も一時期、その考え方に惹かれかけていた。
そうではない、ということが今はわかる。
結果がダメだったのなら、やはりダメなのだ。
でも、そこからやり直せばいい。ダメでもやり直せる。今の人事評価の仕組みは、いかにして再チャレンジさせるか、という方向に変わってきている。見せ掛けの「公平」さなんて、幼稚園児しか求めていないからだ。
結果がダメだったけれど、努力を認めてほしい、というのは幼稚園児の理屈だ。
小学生が頑張る中学入試ですら、そんな理屈は通用しない。
君の周りにももしかしているだろうか?
努力を認めよう。かいた汗を認めよう、と言う人たちが。
その人は成長と成果とを履き違えている。
平康慶浩(ひらやすよしひろ)
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